[生と死を問う]死を語る(上)一人で逝く覚悟必要 五木寛之さん

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世界で最も高齢化が進む日本で、私たちは老いや死をどう受け止めていけばよいのか。

質の高い死について考えるシリーズの第4部では、識者の言葉から、

やがて訪れる「多死社会」への向き合い方を探る。

初回は、戦中、戦後を通して人と死を見つめてきた作家、五木寛之さんに聞いた。

高齢化が騒がれているけれども、その後に、650万人の団塊の世代が一斉にこの世から退場していくわけです。

大量の要介護老人と、大量の死者が周囲にあふれかえる時代がくる。

まさに未曽有の事態です。

これまでの歴史で経験したことがなく、今はまだ解決法もノウハウもありませんから、手探りでやっていくしかありません。

近代は、個人としての老いや死を問題にしてきましたが、これからは社会全体でどう受け止めていくかが課題になります。

政治や経済の問題だけでなく、宗教のような、集団的思想がクローズアップされるんだろうと思います。

老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があるというふうに想像するのは幻想でしょう。

年老いるというのは、そんなにきれいなものじゃありません。身体が次第に崩壊していく中、肩身を狭くして生きていくことなのですから。

昔は高齢者が少なかったから大事にされたが、若者より高齢者の方が多くなれば、そうはいかなくなる。

年を取ってから負う障害については、「転ぶ」ことが大きな問題になります。

日本転倒予防学会に寄せられた川柳に、「つまづいて身より心が傷ついて」というのがありました。

骨折するかどうかよりも先に、「どうしてこんなところでつまずくんだろう」と心が傷つくんですね。

死が突然訪れてくれば簡単ですが、多くの場合、自分が崩れゆく過程を体験しないといけない。

昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにありました。

しかし今は、死ねば宇宙のごみになる感覚でしょう。

その中で、自らの人間的、肉体的な崩壊に日々直面していかなきゃいけない。

介護を受ける人たちも、ある種の失意というか、痛みを感じているんだろうと思います。

だから、認知症は、天の恵みなのかもしれないという医師もいますね。

僕は敗戦を 平壌ピョンヤン で迎え、その後何年かの引き揚げ体験のなかで、大量の死に直面しました。

両親や家族も割合早くに亡くし、死を日常的なものとして受け止めてきました。

僕自身の体が不自由になって、意思の疎通も難しくなってきたときには、食べなきゃいいだろうという感覚があります。

水もあまり取らないようにして、自ら枯れていけばいいじゃないかと。

緩慢な退場というか、そういうのができればいいなと思います。

多くの人が、家族との絆も薄れる中で、自らの老いや死と向き合わねばならない時代です。

子や孫に囲まれて、息をひきとるようなことは、もうあり得ないと思ったほうがよいのではないか。

最期は、一人でこの世を去る覚悟を持たないといけない時代でしょう。

僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない。

単独死、孤独死が、悲惨だとは思いませんね。

◇いつき・ひろゆき

作家。1932年、福岡県生まれ。

『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、『青春の門 筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞を受賞。

昨年刊行された「玄冬の門」(ベスト新書)では、高齢期の生き方や最期の迎え方を説いた。

出典:YOMIURI ONLINE yomiDr.

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