理想の「死」

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この間、死にそうになった。

レンタカーを運転していて、横からトラックが来ているのに気づかず、もう少しでぶつかるところだった。クラクションに気づいてギリギリで止まって、トラックもぼくの車を通り過ぎたところで止まった。トラックはなにか言いたげにしばらく止まっていたが、しばらく経ってからゆっくりと走り出した。「あ、いきなり死ぬことって、あるんだ」と思った。

老人ホームが苦手だ。

とてつもなく大きな「死」を感じる。リハビリをしている人も多いが、そこに大きな見込みはないだろう。衰えている老人たちよりも、老人たちに接する人たちの話し方が怖い。まるで子どもに接するようだ。老人たちも子どもと同じくらいの反応しかできないから、仕方がないのだけど。それでも、たとえ子どものような受け答えすら難しくても、おばあちゃんは元気なおばあちゃんと同じおばあちゃんであることに変わりはない。握手した手は暖かかった。

人はいつかは死ぬ。

ぼくは子どもの頃からずっと、「人に迷惑かける前に、50歳で死にたい」と思っていた。それが折り返しである25歳の誕生日を前にして、時間が全然足りないことに気づきつつある。やりたいことなんて、50年じゃ足りないし、100年あってもきっと足りないだろう。それならば、できるだけ長く生きて、死ぬ間際まで人の役に立ち続けるように頑張ることが一番だ。(もちろん、人の役に立っていない人などいないのだけど)

他人が死ぬことについて考える。

思えば、ぼくは25年弱の人生で、「身近な人の死」を経験したことがない。両親も両方の祖父母も元気だし、昨日まで毎日会っていたような人の死も経験していない。たぶんとても珍しいと思う。だからなおさら、死ぬことについてはよくわからない。

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自分が死ぬことについて考える。

他人の死もわからないから、自分の死もわからないのだけど、できれば苦しまずに死にたい。できれば誰も悲しませずに死にたい。でも誰も悲しませないのは難しいし、それはそれで寂しいだろうな。すごくありふれた言葉だけど、愛する人たちに囲まれて死にたい。子どもや孫が生まれたら、かわいくて仕方ないんだろうな。そういう人たちがいるところで死にたいと思うんだろうな。

生きることについて考える。

学校の講義で、「生きる人間は未完成な死体だ、死ぬことで初めて完成される」と表現した人がいると聞いた。ちょっとそれは言い過ぎかもしれないけど、もしかしたら生きることについて考えることは、死ぬことについて考えることなのかもしれない。どう生きるか、とは、死ぬまでに何をするか、ということなのかもしれない。

どのように死を迎えるか。

どうせいつかは死ぬのだし、突然死んでしまうこともあるかもしれない。でもそれはたぶん、ある程度はしょうがない。明日死んでも後悔しないように、24歳のいまも、たとえ80歳になっても、今日の自分を全力で生きつづけることが、ぼくの理想の「死」の迎え方かもしれない。

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