「死の隣」

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死にたくない。
僕は「死」を恐れている。
そうか、ではお前に不死の命を授けよう」神か誰かが、言った。
言葉を失う。
なぜ喜ばない。なぜ喜べない。
それは困るのだ。たぶん。
なぜなのだろう。僕はなんの反論も持つべきではないはずだ。
死にたくない、という僕の望みを叶える魔法の言葉。

僕は何かを恐れている。
そう、「死」を恐れる自分の隣には、「不死」を恐れる自分が静かに立っていた。

正直に告白するならば、「死にたくない」と主張する僕ですら、ほんの少し「死にたい」と思ったことがあったのではないだろうか。

僕は幸い、毎日毎日「死にたい」と思って生きているわけではない。断じてない。

ただ、毎日毎日「死にたくない」と思って生きているわけでも、どうやらないようだった。

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統計的に言うならば、地下鉄のホームにて、10日中3日は「おお、こえー、躓いたりなんかしたら死んじまうよ」と思っていて、1日くらいはもしかしたら「飛び込めたならどんなに楽だろう」と無意識に考えてしまっているかもしれない。打率1割で、死への憧憬が僕の意識をジャストミートする。その打率が高いのか低いのかは分からないけれど。さて、10日中まだ半分以上残っているわけだが、多分僕は地下鉄を見ても何も感じていないんだろうと思われる。開いたドアの中で待ち受ける、無数の灰色がかった表情に、ただ自分を同化させ滑り込ませることに追われている。

それにしても「死」とは不思議なものだ。

たとえば「結婚」という言葉がある。僕は未婚だけれど、「結婚」を経験した人からそれがいいものだとか、ろくでもないものだとか、色んな経験談を聴くことができる。そうやって僕の結婚観は形作られてきた。僕がいつか「結婚」を経験したら、僕の結婚観は一歩前に進むのだろうか。まぁ、今と変わらないかもしれない。

一方、僕は「死」を経験したこともないし、「死」を経験した人からの骨身に沁みるような経験談を聴いたことも、残念ながら今のところない。だからそれがいいものなのか、ろくでもないものなのか、僕には分からないはずなのだ。しかし、それにもかかわらず、僕は「死」を恐れている。そして今「不死」ですら恐れ始めている。さらには「死」ということから、意識的にか、無意識的にか、懸命に「目を逸らそう」としている。
そうして同時に「生」ということからすら目を逸らしている。

「死にたくない。でも、死なないということはもっと恐ろしいことなのかもしれない」

神か誰かが、静かに頷く。

「まだ死にたくない。でも、いつか迎えに行くよ。だから、生きたい」

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